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DATE: CATEGORY:城館マガイ地巡り
昨日に引き続き、今日もマガイ地巡りに行くとする。

今回も同じ横瀬町芦ヶ久保の「殿谷戸(とのがいと)」の謎に迫る。
続きはまた下をクリック。

西武鉄道芦ヶ久保駅前には怪しい地形が2箇所ある。
一つは川地の独立峰→ こちら
そしてもう一つは殿谷戸にある独立峰→ こちら
まずは先に川地の独立峰へ行ってみる。

川地の独立峰
うーん、地図では見ていたが、なかなかいい立地条件だ。
運良く尾根伝いにハイキング道があるので、行って見た。
頂上部分
うん、今回も見事な自然地形。
今回は立地条件だけで訪問したのでないのが当然だったりもする。
さて、次は「殿谷戸」の独立峰へ出発。

横から見た殿谷戸の独立峰
写真中央の日の当たっている独立峰が今回向かう場所である。
南北にやせ尾根が連なり、東と西は沢が流れている関係で急傾斜。
地名からの訪問ではあるが、街道(現在の国道299号線)はほんの少ししか見渡せない。
果たして何が現れるのやら?

尾根は沢に削られて絶壁に
なんとか里道があって尾根伝いにたどりついたが・・・沢が流れていてけっこう絶壁。
獣道はしっかりあるので、それを使い上がって行く。
それにしても近くのお犬様がお吼えになっているが・・・こちらの存在を察知したか?

削平された頂上
うわ!!
唐突に削平地が姿を現しびっくり。
数分間観察するが、どう見ても人の手が加わった地形にしか見えない。

北側の削り残し
北側部分だけはしっかり削り残しているのは、なにか理由があるのか?
真相はいかに??

八坂神社
どうやら二つの頂上が連なっていたようであるが、削平により接続した平地になっている。
行ってみると神社のお社があり、南側は一段下がって切り落としになっている。
写真はその切り落とされた地形とお社。

八坂神社の鳥居にある額
上記のお社はどうやら八坂神社である様子。
削平地の南端には鳥居があり、そこには写真の明記がある。
そこから更に下ってみた。
急な坂を九十九折に下って行き、その先にあったのは・・・

え!?民家の庭先???
他に道が見当たらなかったので、そのまま駆け足で通過((汗


独立峰を芦ヶ久保駅より
そんなことで車の駐車してある道の駅まで戻ってきた。
写真は先ほどの独立峰であるが、ここからみるといい形をしているが、疑問が無いわけでもない。

1、街道から少し奥に位置する為、街道沿いの監視に向かない事。
2、削平はされているものの、平場同士をつなぐ部分に堀がない事、また八坂神社が所在する事。
3、この辺りで拠点と思われる「机の城(根古屋城)」は直接見えない事。

これらを踏まえてみると在地土豪の詰め城という理論も考えられるが、それを理論付けるには少々無理がある。
今の所可能性が高いのが八坂神社として削平されたという事であるが、奥(北側)を削平している意味が分からなくなる。

今回の場所を簡単に図示すると以下の様な形である。
見取り図


また今後も継続して調査を行う予定・・・ではある。
コメント

お疲れ様です

独立峰というのはとても魅力がありますね。
少々否定的な意見になってしまい申しわけありませんが独立峰に詰め城を構え籠もるということは第三者からの後詰を当てにしなければできないということになりますね。
つまり戦略上、短期決戦であれば良いのでしょうが長期の籠城には向きません。
水、食料の確保という点ではどこかが尾根続きでなければ厳しいと思われます。
囲まれてしまえば・・・

ですから上記の物件が城であるとするならば烽火などの物見的な砦か、村の城ということになりそうですがあくまでも個人的な意見であります。
否定的な内容になってしまいましたが少しでも参考になればと思いコメントしてみました。

ご意見ありがとうございます。

「地名」の効力があるにしても城館である確立は本文にある条件もあり、5割程かと思っております。

史進様の言われる通り平場があるにしてもかなり狭い面積ですし、詰めの城にするのにはかなり無理があります。そうなるとおっしゃる通り「村の城」としてあったのではないかというのが有力になりそうです。

また今後の課題である「兵の沢」の謎も、この殿谷戸とどの様なかかわりがあるのか?近距離だけに気になって参ります。

遅参致しました

9時過ぎに帰宅したため遅参致しました。

やや異なる角度からコメントを。
「新編武蔵風土記稿」の芦ヶ久保村の項によりますと、「戸数は20戸で、畑の土質も小石混じりで作物の生育が悪い」(日照時間の短さも影響していると思われます)との記述がありました。

また芦ヶ久保村自体も享保18年(1733)に横瀬村から分村したものとされており、現実に小名のひとつである「殿ヶ谷戸」がどれほど規模の集落であったのかは不明ですが、他の赤屋、大畑、中道などの集落の戸数を単純平均して差し引きますと5戸ほどの小集落ということになります。

仮に時代背景を戦国時代末期と想定したといたしますと、幕末期に比べ人口は凡そ1/3程度と推定されます。
このため芦ヶ久保村全体を支配する在地土豪の存在を想定したとしても、支配下の人口は多くとも老若男女合わせて50人ほどと推定されます。

そのうち男性が半数と仮定し、うち15歳から60歳までの労働人口は更に半分程度と考えられます。
このことから村落の指導的立場にあった者は、所謂一騎駈けの地侍乃至は上層農民階層が想定されるのではないでしょうか。

従いまして、既にお二人がご指摘の如く在地土豪の詰城という可能性は少ないように思われ、また物見砦としてはやや眺望が不十分な印象を感じます。
このためどちらかといえば上杉氏・武田氏等の乱取りから村人の生命・財産を守るための「村の城」(小屋)の存在を想起させるもののようにも思われます。

以上、あくまでも「新編武蔵風土記稿」の記述を丸呑み+歴史人口学の受売りに基づく、極めて説得力に欠ける妄想でございました(汗)

ご意見ありがとうございます。

確かに渓谷になっていて農耕をするには向かない地形ではありますね。

最初は上記の神社があった事からその神社のための削平地かと考えておりました。とはいえあまりにも見事な削平と、切り落とした地形を残すなどしており、素直に神社のために削平されたとも言えない状況であります。

地名にもなっている「殿」とは何をさすのか?一般的には領主の事を指すとは考えられますが、集落の戸長を指していたかも知れません。となると皆様が仰せの通り「村の城」という観点が一番落ち着きますね。

資料の調査までなさってくださり、ありがとうございます。

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