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DATE: CATEGORY:城館探訪
我が母君が「行田のフライというのを食べたい」と申された。確かに埼玉県の観光案内の本にはフライのお店が数件載っていた。ふむ、27日は昼も夜も仕事が休みなので、ここでひとっ走り行田に行き、フライを買いがてら城館探訪もしてしまおう。

そういう事でその日の夜明け前に目を覚ました・・・。

素晴らしい、昨晩までの雨が嘘のように晴れ渡り、星が天上で瞬いている。これはステキな城館探訪が出来そうな予感が満点。
洗濯を夜明け前からしてしまい、行田の街に向けて車を走らせた。


行田へ抜ける道、信号の地点で一時熊谷市に入る。

昨晩の雨の影響からか、強風が吹いている。でも雲がほとんどなく、快晴である。遠くは男体山らしき高山まで見え、城館探訪の楽しみの一つを味わいながら荒川を渡る。通勤時間ではあるが、手前の行く方向は逆なのでさして影響は無かった。

低地地帯ならではの水没シーン

ところが行田市に入ってビックリ!水田が水浸し状態である。こんな12月の末にこの風景・・・なんとも異様なり。
かくして最初の目的地である皿尾城へ着いた。


皿尾城
皿尾城遠望、水田地より微妙に高いのが今回の洪水でよく分かる。

忍城の直ぐ近くにある城。
上杉輝虎が忍城攻略の為に作らせた対の城というが、数百mという近距離を考えれば忍城の支城を輝虎が奪い、対の城として活用したというのが正しそうな気がする。
堀が周囲を囲む程度の遺構であるが、周囲の水田地帯を見れば前は湖沼であった可能性は高いので忍城ほどの防衛施設は必要なかったというのが正しそうだ。


皿尾城跡がある大雷神社

皿尾城のあったとされる場所には、現在大雷神社という神社が建っている。果たして遺構は?


神社と民家の合間に堀らしきものが

神社と民家の合間には堀のようなものがあるが・・・あまりにも浅い堀なので微妙である。


皿尾城石碑

神社の南側には石碑が建立されていた。しかし、この農道はどうやら地元の抜け道らしく、通勤時間も重なって非常に車が行き来していた。
こんなところでたむろっている手前はやはり怪しい人だったのだろうのう、車を運転しながらじっとこちらを見ているシーンも。


土塁と思われる高まり。

神社の境内北側には土の高まりがまだ残されていた。たかが土塁されど土塁。あるだけで手前の好奇心はグンっと高まる。


石碑を遠くから見る

堀らしき堀はあるものの、農業用の水路などが幾つかあるので紛らわしい所もある。今回は冬場に関わらず、昨晩まで降った大雨で水城のような様相を呈していたのだった。



しばらく休憩したのち、次なる城館を目指し車を走らせる事にした。


麻積氏館
麻積氏館推定地の遠望

麻積と書き「おみ」と読むらしい。
古くは坂上田村麻呂が奥州征伐に赴くとき、この地に霊感を感じた事から当地の真観寺の始まりという。中世になって、忍城主である成田氏の配下として信州より移り住んだ麻積氏がここに住したという。
時代が近世になると麻積氏に代わり田口氏がこの地に住したという。


真観寺の裏には真観寺古墳がそそり立つ。

さて、来たはいいが・・・周囲は特に遺構は見当たらず、民家が数軒建つのみ。うーん、麻積氏についての情報はどこに?


真観寺の門

ここの寺で聞くのが一番早い、という事で早速聞きに行ったが、どうやら正月前で御節料理を作るのに大変忙しかったようである。そういえば正月ももうあと僅か、申し訳ないと思いつつ20分ほどお話を聞いてしまったり。今度から正月前などは寺に訪問しないようにせねばのう。
館跡はほぼ喪失しているものの、寺の東には板碑があるらしい。


館跡の南を流れる川

寺の南には結構な量の水路が流れている。館跡はこの川によっても守られていた可能性もありそうだ。


田口氏墓

近世にこの地に住した田口氏の墓だという。この田口氏はそのまま麻積氏の館跡には住まず、日光街道の西向かいの場所に住んだという。


真観寺と真観寺古墳

この真観寺の裏は古墳になっている。一層高いので物見の櫓などが立てられた可能性も充分あり得る。


真観寺古墳の石碑

西の県道(旧日光街道)の側には古墳の石碑が建っている。この石碑を観ると麻積氏館跡より古墳の方が遥かに有名であるというのが実感できる。


遠くに富士山が見える

古墳に登ってみる。遠くを見渡せば富士山がそびえたっていた。
いまでこそ建物が多く建っているが、中世の頃であれば視界はかなり良好であった事だろう。


田口氏の屋敷跡、今は葬儀会場となっている

近世の田口氏の屋敷跡は葬儀会場となっていて、遺構はほぼ喪失している。周りを見渡してみたが堀らしい跡は既に無い。


ちかくにまた古墳が・・・

この辺りは本当によく古墳が作られている。いささか謎なのは何故大河の洪水に襲われかねないこの地に古墳を築いたのか?「埼玉の津」と呼ばれる水運の拠点がこの辺りにあったとされる事からも古代よりこの地が注目されていたのであろうか?ともかく謎である。

・・・なんか麻積氏の館跡はほとんどないのが残念なり。



忍城本曲輪石碑

かくしてその他の行田市の城館を調べるべく忍城内にある資料館に来て見た。流石に忍城は巨大な城郭であり見ごたえがある・・・が手前的にちっと萌えて来ない。やはり手前には遺構の消えそうな城館を探訪する方が性に合ってるようだ。
さて、資料館は・・・ここだ!
資料館は休館日なり(笑

何?休館日だと?開館日の案内を読む所によれば、どうやら昨日までやっていたらしく、今日から年末年始のおやすみに入ったらしい。ふむう、仕方ないので出直しだ。
こうなれば市営図書館でも捜索するに限るのう。


と地図を見ながら図書館を探す、水城公園の近くのはずだったが、聞き込みをする内に図書館がさきたま古墳の近くに移転したという情報を聞き、その地に赴く

行田市の図書館が入っている学習センター

きたら随分と真新しい建物が建っていた。ここで行田の館跡についての情報を入手する。それらを読むとなかなか須賀城がなかなか趣きありそうな感じだ。時間があったらそこも訪問するとし、この図書館を発つ。



鎌田氏館

鎌田氏館遠望?

「埼玉の中世城館跡」に掲載されているだけで行田市史にも(手前が見た範囲では)載っていなかった館跡。恐らくは中世に鎌田氏という武士がこの地に住んでいた事から命名されたと思うが詳しくは不詳。

天正十八年に石田三成が忍城攻めの際に築いたとされる堤の名残

そんな事でやってきました「さきたま古墳」。
理由はまったく分からないが本当にこの周辺は古墳が多い。
鎌田氏館跡に行く前にちっくら古墳めぐりをするとする。この丸墓山古墳は天正十八年の石田三成忍城攻めの時の本陣であったとされる。確かにこの古墳から忍城がよく望める。


国宝「金錯銘鉄剣」の出土したという稲荷山古墳を遠くより見る

次は鉄剣が出たという稲荷山古墳。つい数年前まえでは改修工事を行っていたが、いまではその勇姿を現代人の手を借りて復活している。
別に古墳ならいいかって感じだが、城館でそれをされたら・・・ちっと遠慮して欲しい(笑
ここも昨晩までの雨の影響を受けて水浸しである。


埼玉県で一番大きい二子山古墳

出ました、二子山古墳でございます。埼玉県で最大の前方後円墳だけあり、「目指せ世界遺産」という文字がなんとも言えぬいい味を出していたりする。


将軍山古墳の風景

埴輪が置いてあっていかにも真新しい古墳を思わせる将軍山古墳。もちろんなかも展示場となってこのあたりの古墳の中では真新しさを感じる。中世城館で言えば鉢形城あたりに当たるか。


そろそろ古墳めぐりは終わりにして、肝心の鎌田氏館を探訪することに。


鎌田氏館推定地

その地は既に住宅地化されていて名残も少ない。あるとすれば若干の地形的な高さがそれに当たるだろうか。見た感じでは堀や土塁といった遺構は見当たらなかった。先の川島町同様「微高地であればどこでも館跡がある」という法則に則った感じの場所なのであろうか。

色々とあって楽しいさきたま古墳ではあるが、まだ訪問したい館跡はまだあるので先に進むとする。


渡柳氏館
渡柳氏館の遠望?

ここも「埼玉の中世城館跡」により訪れた場所。ここも鎌田氏館同様に行田市史より資料を見つける事は叶わなかった。恐らくここも地在武士の館だったのだろうと推測。
さきたま古墳の南1.5Kmほどの所にあり、南北に自然堤防のあった感じのする地である。


館跡のあったとされる正福寺

この寺の周辺が館跡であったらしい。周辺に遺構を求めてみるも特に遺構は見当たらず。うーん、残念。


正福寺の裏側

正福寺の裏側に遺構を求めてみる。何気に地形が土塁があったと思わせるところがあるが、確かな証拠はあらず。


寺の裏を流れる水路

この辺りは良くみるとこの水路より南側は一段と高くなった感じになっている。そうなるとこの館跡を求めるとしたら、この川を頼りに探してみるのも手か。


それからまた東に行き、真板氏館を訪ねる事にした。
水田水浸し

ふと脇を見ると・・・畦道が水没しております(汗


またちょっとわき道を入って車で走る
川の中を走る道

これはこれで凄い場所になっておるのう。
かくしてその道を走り、真板氏館に着く事ができた。



真板氏館
真板氏館遠望

弓の名手として「吾妻鑑」に十一度記入されているという真板五郎次郎大中臣経朝の館跡と伝わる。「手無し薬師」という青銅製の仏像があり、「行田史跡物語(大沢俊吉著)」では鎌倉後期に作られた仏像で、これかで立派な作りであるとよほどの権力者でないと作れないという事から、当地を上記の真板経朝の出身地であると理論している。


医王山花蔵院の山門

医王山花蔵院自体はあっさりと見つかる。この門の前がやや広いので駐車してしまったが、どうやら裏(北側)に参拝用の駐車場があったらしい。


巨大な公孫樹(いちょう)の樹

行田市内では最大規模と言われる公孫樹(いちょう)の樹があった。あったはあったが・・・上の方が枯れていたり一本斜めになっていたりと色々と不都合がありそうだ。


真板氏館の板石塔婆、でかい。

公孫樹の裏側に板碑があった。・・・がこの辺りでは最大規模の板碑ではなかろうか?これを見ただけだと仲山城近くにある野上下郷板石塔婆ぐらいの大きさを感じる。


裏側には古墳が・・・

板碑の西には古墳がひっそりたたずんでいた。この辺りが田園地帯であると考えると、この古墳は物見の役割を果たしていた事は間違い無さそうだ。早速登ってみる。


古墳からの眺望

古墳の上はベンチまで置かれていて、ここから見える風景を楽しんでいって下さいといわんがばかりの設備であった。確かに見晴らしは良い。行田の館跡はこういう物見の櫓を古墳を利用して調達しやすいというメリットがあったのかも知れない。


っとここでデジカメの撮影枚数が一杯になってしまった。須賀城も見ていきたいと考えていただけに残念であるが、須賀城はまた後日の楽しみに取っておいて、肝心のフライを買いに行田市内へ行くのであった。
コメント

まさに天然の要害の風情が

大雨のあとの訪城は足元に難がある一方で、低湿地に所在する城館跡の雰囲気が伝わってきますね。
皿尾城付近の水田の様子はまさに浮き城の観も。

さて、行田といえば確か「ゼリーフライ」でしたっけ。
話には聞くのですが、未だ食したことがありません。

年末年始とひたすらHPの更新作業をしていた塚越でした。

毎度コメントありがとうございます。

やっとこの日行った城館を全てアップする事ができました。写真の加工からなにやら色々とするのでHPのアップはやや手間がかかりますが、皆さんに楽しんでいただけたらと思います。

フライというのは「フライパンからできたからフライ」だそうです。どんな揚げ物かと思ったら実はお好み焼きだったという。うーん、焼くものがフライパンだっただけでほとんどお好み焼きなのだが・・・って感じでした。

またのお越しをお待ちしております。

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