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DATE: CATEGORY:城館探訪
先ほどの正光寺城がかなりよかったので、いきなり山城に挑戦してみたくなってしまった。
我が事ながら自分の選択がよく分からないところがあるが、自由に行きたい城に行くのがよいとおもえる。

そんなことでチョイスしたのが、正光寺城の北の山にあるという浅利城である。

●浅利城 (旧田沼町)
浅利城 遠景
浅利城は宝徳三年(1451)佐野氏の支族である神馬七郎忠光が築いたものと伝わる。
後に天文十五年(1546)の武州河越の戦にて神馬遠江守忠春が討死し、城も廃されたというから、実質百年程使われたという事であろうか。

その時所持していた資料では二つ並んでいる山のどちらか分からなかったので、どちらも登ることにした。
(城郭大系には「浅利山と尾根伝いの西隣の山」と記載されているのでおのずと東側の山であると分かったはずなのだが・・・)

北側から登り始めた場所
はて?北側から来たのはいいが、途中で道がなくなる。
こうなったら直登して城へ向かうしかあるまい。

崖
よじ登ると岩肌が出て更に倒木もありとバラエティが豊かになってきた。
さすがにこちらから鎧兜を装着して攻め込むのは無理があるなっと思いつつ、さらに登っていった。

堀切
おお、遺構らしい遺構がでてきた。
人によりけりかも知れないが、個人的に堀切と思える地形なり。

浅利城 本曲輪
本曲輪についた。
山頂は綺麗に削平されており、ちょっとした広さがあった。
実は一段西側に下ると山の鞍部を利用して平場が設けられており、矢倉台とも思える部分もある。

浅利城東側の腰曲輪
この城は個人的に特徴的な作りをしていると思っている。
というのも東側はいくつも腰曲輪を設けている割には堀切が見当たらず、西側は堀切が離れて二条あるだけ。
もっとも古い作りの山城であるといえる。

浅利城より無名山を望む
ちょっと北側の山を見る。
山城はこういう風景も見れるからいいものだ。

西隣の山との境界をなすようにある堀
ここは城の最西端部にあたり、ここから隣の山へ登るものの、遺構はないようだ。

ちょっとずれてるが浅利城から見た風景に近い風景
浅利城の西隣の山に登り始めた所で木が伐採されており、景色が開けた。
おお?これってもっている日本城郭大系の写真の方角か?
これを見ても、ここがいかに眺望に優れているかを示しているように思えたり。
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DATE: CATEGORY:城館探訪

天気が良く気分はすっかり栃木に向いてしまった儀一。
そんな事でのんびりと朝食を取り、ゆっくりと家を出てのんびりと元田沼町へ。

さて?来てしまった以上はどこかに行きたいので、なぜか印象深かった正光寺城に向かった。


●正光寺城 (旧田沼町)
正光寺城 遠景
田沼町史(1984)には近くの須花城への出城説を出しているが、それと同時に須花城への対の城である「悪戸(あくと)城」である可能性も示している。
いずれにしても近くの須花城とは何らかの関係があるようである。

近くの路地
ここは正光寺の東側。
思い切り向かって左側の森に突撃しようかと思ったが、もう少し周囲を見て回る事に。

墓地近く
少し行った所に寺への裏口があり、入ってみる。
坂をちょっと登ってきてみたが・・・写真の場所が堀か?これは微妙な。
しばらく回ってみる。

墓所への案内板
と探していたらこんな案内板を発見。
佐野宗綱は戦国期の人である。

佐野宗綱と将兵の墓
これがその墓で、手を合わせた。
しかし、ここに佐野一族の墓地があるという事は、佐野氏ゆかりの場所なのであろうか?
ちょっと周囲を見渡したその時!!

後ろになにかある
なんだか凄い地形になっている。
もしやこれが遺構か?

がっつり堀がある
おお!!!
普段はまがい地ばかり探訪しているので、ここまで明瞭な遺構を見て思わずドキドキ。
季節もあるだろうが、結構見やすい遺構である。

正光寺城の本曲輪
んで本曲輪へ。
今丁度一部紅葉していて綺麗だ。
城は丘北東部の最高所を本曲輪とし、北側は急斜面になってコンクリートになっている。
北以外を土塁で囲み、更に堀で区切ったいたってシンプルな作り。

これは最初から当たりだった。
そんな事で次なる城館跡へ向かうのであった。
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DATE: CATEGORY:城館探訪
<あらすじ>
これは去る11月8日に訪問した城館跡を「1日1城」を目指しドキュメンタリーに書こうとした新たなる試みである。 ついにこのシリーズも今日が最終回である。

●磯ヶ原城
磯ヶ原城の遠景
写真でも分かるほど薄暗くなり、遺構を追い求めるのも難しくなってきた。
何しろカメラがピント合わせするのが大変らしく、後で見てみるとブレた写真が多い事。
それ以上に薄暗くなって地形が分かりづらくなってくるのが一番大きいところか。

県道57号線をはさんで南側に磯ヶ原城はあったといい、先の北大島城から西に600mも離れていない場所にある。
以前は湿地に囲まれた城であったようだが、現在では水田となって開拓されている。

県道57号線の交差点
実を言えばわりと薄暗くなってきたので、地形の高低差を見るゆとりもなくなってきていた。
たまに固まってやってくる車の列を避け、道路の向かいに行く。

堀か?
ん~、城の名残に見えなくもないが、そうであるとも断言できない地形。
これはまだブレが少ない方で、他の写真はブレが多く、何を写しているのかすら分からない状態になってしまった。
本日の城館探訪は事実上ここまでとなった。

薄暗いが影を写す三毳山
ここは群馬県でもほぼ栃木県ともいえるような場所で、北に目を向けるとそこには三毳山(みかもやま)が映っている。
あの場所まで行くと栃木県の名城である唐沢山城や皆川城も近い。
何気にJR両毛線の脇に残る富田城の巨大土塁をも思い浮かべる。
このとき栃木県の城館へ久々に行ってみたくなってくる。

さあ、本当に周辺は暗くなってきた。
安全運転で家に向かって車を走らせるのであった。

冬到来、群馬城館探訪 第1部 完



(おまけ)
帰り道に思い切り館林市街地に紛れ込み、迷子になる儀一。
その時あの館林城の土塁と思われる高まりが道路から見え、萌えてしまう。
機会を見て館林城を回るのも良いかも知れない。
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DATE: CATEGORY:城館探訪
<あらすじ>
これは去る11月8日に訪問した城館跡を「1日1城」を目指しドキュメンタリーに書こうとした新たなる試みである。 ・・・っと今回を含めて後2回で終わり。

●植村屋敷
植村屋敷があったとされる春昌寺前
北大島城を後にした儀一は、せめて近くの磯ヶ原城と植村屋敷が見れればと思い、県道57号線を横切り大島町の正儀内集落に赴く。もう日が落ち、徐々に周辺は宵闇に包まれつつあった。

植村屋敷は別名三本木屋敷とも言われ、植村家次が住んでいたという。それ以上の事は資料が手元にないので分からないが、土豪の屋敷であったという感じだろうか。

正儀内集落にある水堀
館跡といわれる春昌寺へ向かう途中にステキな風景を発見。
山崎一氏の描かれた縄張りにはこの辺りもすこしだけ書かれている。しかしながら周辺の水田とさして地形的な高度は違いがなく、農業灌漑の一部という印象が強い。

春昌寺の裏側
春昌寺の裏に堀があるような描かれ方をされていたが、宅地や畑になってしまってその名残を追うのが難しくなっていた。あくまで道路側しか見ていないので未発見の堀などもあるかも知れないが・・・。
お寺のお犬様がこちらを見て盛んに歓迎して下さっている。

正儀内集落を流れる水路
うむ、遺構の名残を残すのはこの水路ぐらいであろうか。
写真は春昌寺から東に見た水路で、これが二つ上の写真の水路に繋がっている。

道端を歩くと少年野球からお帰りの小学生に「こんにちは!」と元気よく挨拶をされ、こちらもあわてて「こんにちは」と挨拶を返す。
子供だとしっかり挨拶をするのだが、大人になるにつれて挨拶ができない人が増えるのも不思議なもの。
もっともこちらは犯罪と間違われる恐れがあるので、あまり子供に近づく事をしたくなかったりも。
気楽じゃない時代になったものだ。

そんな事で夜間撮影に適した我がカメラもそろそろ影響するほどの暗さになってきた。
多分全部をみるのは難しいが、近くの磯ヶ原城へ足を向けた。

(明日のブログに続く)
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DATE: CATEGORY:城館探訪
<あらすじ>
これは去る11月8日に訪問した城館跡を「1日1城」を目指しドキュメンタリーに書こうとした新たなる試みである。

●北大島城
下大島城 遠景
戦国期に片見師方が在城していたという以外有力資料を今回持ち合わせておらず。
いい加減に館林市史あたりを調べに行かないとのう。
ここより北600mには渡良瀬川が流れており、川を越えると栃木県佐野市になる。
写真は城を北西から撮影したもので、手前側の水田もかっては渡良瀬川が織り成す低地帯だったと想像できる。

比高差をみる
こうして近づくとそれなりに高い地形であるのが分かる。
なお、城の全域は今は集落になっている。

本曲輪と思われる地域
思わず水田脇の道路に車を停めてきたが、ここに停めさせていただけたそうだった。
あくまで予想だが、ここが本曲輪なのではと思ったり。
奥の社の先は最初に出た低地帯である。

最初読めなかった
上記の本曲輪にある神社の名前である。
これを最初読めず「なんて神社だろう?」と思っていたが、地図を見ると「十二社権現神社」であるのが分かった。
なかなか良いデザインである。

寄居
この城には寄居があり、現在は写真のように民家と農地が共存している。
後ろの竹やぶが城の方向になる。

堀
実は神社周辺にこの北大島城の遺構と呼べるところが集中しているようにも。
写真は神社西側の民家との間にあったと思われる堀。
分かりづらい上に地形がなだらかになっているのだが、堀であるのが伝わってくる。


再び車に戻る頃には、更に夕闇に包まれてきていた。
あと1箇所が限度か・・・
愛用の地図で所在地を確かめ、次なる城館へ赴くのであった。



(明日のブログに続く)
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