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DATE: CATEGORY:城館探訪
天気がなんとなく回復傾向にあったので、埼玉県児玉郡周辺の少し訪問してない中世城館を訪ねることとした。

●児玉時国館
玉蓮寺周辺に鎌倉時代頃の館跡があると以前うかがっていた為に訪問。
確かに小川が流れて僅かながら舌状台地を成してはいるが、とても館跡に適した状況ではなかった。むしろ西隣にある玉蔵寺がその雰囲気を出していた。
現地の案内板には康永年間(1342~1345)に戦没者を慰めるべく児玉党が八幡山雉ヶ岡に招魂碑を建て、その後雉ヶ岡が上杉氏に城郭化される際に当地に移設され玉蔵寺が開基された旨が書かれていた。となると玉蔵寺は以前、児玉党の館跡として使われていた可能性も考えられる。
南に隣接して八幡神社があり、こちらには今も土塁が残っている。これを児玉氏が自己の館内に立てた祈願所の跡とも考えられる。この事から個人的には八幡神社から玉蔵寺境内にかけて地形的に同じ高さである事から、ここに館跡があったのではないかと推定している。

●蛭川氏館
旧児玉町から本庄市街に向けて国道462号線が走っている。蛭川集落はその中間より児玉寄りにあり、この中だけ道の形状は複雑になっている。
館跡のなごりのありそうな西外れの駒形神社境内を最初に調べてみたら平重衝の首塚跡の碑が建っていた。源平合戦の折、蛭川氏の祖とも言うべき庄四郎高家が重衝を生け捕るという功績をなし、高家の名はますます高まった訳である。
敵将で重きをなしていた重衝を高家は丁重に扱い、処刑されたその首を自分の領地に持ち帰り供養したわけであるが、それを自分の館跡内におくとは少々考えにくい。従ってその居館はこの辺りにある可能性が出てきたわけである。
「埼玉の中世城館跡」に記載されていた場所を訪ねる。国道がその中央を走り、民家が軒を連ねかっての館跡の趣きを感じさせないところがある。だが、その民家の合間に東西に伸びる溝があり、これを直接館跡の名残とみるべきか悩む。しかしこの溝と北西を流れる女堀川との間には約1町程の空間ができ、明確な遺構こそさして残されていないものの、ここをその館跡とみなす事はできそうである。また北にかかる「金鑽橋」も児玉党とゆかりの深い「金鑽神社」が付近にあったことから名づいた事も想像できる。

●真下氏館
蛭川氏館より北西に約1kmに真下氏館の推定地はある。
最初に児玉党にゆかりの深い「金佐奈(金鑽)神社」を訪れる。しかし、境内は比較的狭くここを館跡と見る事はかなわない。その東隣の集落を歩く、すると明確な遺構ではないが古木がある方形型に生えているのが印象的で、南の小水路も不自然に迂回して流れている。また南から伸びてきた道が集落を西側に迂回する形でカーブしているが、その旧道がその集落の中心地を貫通して走っている。
これらを見ても当地が新しくても江戸期には名主屋敷として機能していた可能性を示しているように思える。
近くの龍泉寺の解説板には興味深い内容が記されていた。当寺が真下氏開祖である真下太郎基行(五郎大夫基行)の隠寮であったが、昭和十八年に児玉飛行場設置の際に境内が軍命に接して移設したと書かれる。
これから考えると遺構は残されていてもその飛行場設置時に喪失した可能性も高い。またこれは飛行場設置以前の地図を元に所在地の再確認をする必要がでてきた。

●城の内
蛭川地区内に「城の内」との記載が「埼玉県の中世城館跡」には書かれていたが、現地は水田地でその可能性が低く思えた。それより再びであるが金鑽神社のある入浅見地区の丘陵にそれを求めるのが正解に思え、そちらに立ち寄る。
神社境内は児玉地方においては最大規模の古墳であったらしい。古代の古墳を城館設備に転用するのはよくある。木々が茂っているものの視界は良好であり、古墳跡を物見塚として利用していた可能性も充分考えられる。
なお、南斜面の小字名には「内手」の名が残る。

●武井氏館
ここも水田になっていて、まして戦国末期に館跡を作るというのが考えづらい。
先の城の内より伸びる舌状台地上に作ったと考える方が自然に思える。

●福島氏館
こちらも戦国末期らしいが、福島氏自体の出身は未調査ゆえ不詳。
現在も集落があり、南に「前屋敷」と北に「北口」とあり、昔からの集落であった事を偲ばせる。
江戸期においても名主屋敷であった可能性もあるが、遺構の範囲は不明確。だが地形的にすこし高まった部分はあるが形状が不自然なのでここを館跡と推定する事はできなかった。

●関根氏屋敷
福島氏館の西にある。こちらも集落の中に存在していたようである。
一部旧家の北側に道路に面して土塁らしきところがあるが、これを屋敷の名残と見ていいのか迷う。

●小茂田堀之内
児玉党出身といわれる薦田(こもだ)氏の館跡と思われる。
小茂田地区の県道沿いに勝輪寺があり、その周りを10年前から整備してきた「榛沢用水路」が囲む形に流れる。ただ、この用水路がどのくらいの時代を遡るかは不明だが、鎌倉期よりこの形状であれば勝輪寺は地形を利用した堅固な地を利用した館跡と見なせそうである。

●河辺館
旧岡部町後榛沢字河辺にあったとされる館跡。
集落の道路沿いになどの土盛があるが、これが直接館跡遺構とみなせるかは不明なところである。

●阿那志堀之内
美里町に同名の地名あり、現在は県道本庄寄居線阿那志交差点北西側にその場所を求める事ができる。現在同地は農業公園になっていて、多少狭いが駐車場はある。
遺構の内容は不明であるが、北側を水路(名称不詳)が流れており、古くの屋敷があった趣きをだしている。

●阿那志沖屋敷
小字名にのみ「沖屋敷」と残す。
名称の由来は周囲の丘陵から離れ周囲が水田地であることからまるで海上に居るような環境である事から沖という名称が付いたのだろうか?現在は近くを関越自動車道が走るが、それ以前は広々とした水田地の中央部分に位置していた江戸期の屋敷跡であろうと思われる。

●用土城
最後にいままで訪れてなかった用土城を訪ねる。
小高い丘で東方の視界は良好な地である。しかし、石碑が建つのみで城の遺構はほぼ皆無。おそらくは藤田康邦が北条氏に敵意を見せないための簡素なつくりであった可能性が高い。
近くに近世天守をかたどった建造物があり、中世城館を知らない人からも「お城っぽい」印象を与えている。



こう周ってみたが、この季節の城館探訪は暑くも寒くなく、とても快適に周る事ができた。
広々とした田園風景を歩くと、一段と季節の変わり目を感じる事ができ、個人的には癒されるところがあるのであった。
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