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DATE: CATEGORY:城館探訪
所沢市の城館まがいを訪ねる旅はまだ続く。

●荒波多氏館
今回の所沢市城館探訪をしたくなったきっかけがこの館跡である。
私のみならず人はみな「見えない何かに魅力を感じる」ものがあるという。その点、この荒波多氏に関しては村山党山口季信を祖として、当地を本貫地としたとしか無く。館跡についても荒幡地区内にあったのではという事ぐらいしか伝わっていない。故に是非、館跡があったのではという地を自ら訪れたくなったのであった。
荒幡地区は国道463号バイバスが延長する予定地になっており、一部は既に買収が終わり道路が仮設されている。この北側を柳瀬川が流れ、その流域には「本村」という地名がある。その本村を両側から挟むように「東内手」と「西内手」という地名がありいかにもこの地区の中心的な館跡があったのではと思わせる雰囲気があった。かくして現地を訪れてみたが、殆どが宅地化されているものの、本村のやや南(荒幡交差点のやや北側)に東西100m、高さ2m程の台地が突起しているところがあった。
しかし、今回見つけたそれらしい地形はここのみで、南の本覚院周辺も再調査する必要があるかも知れない。

●大堀山
別名「北秋津城」。中世においては久米郷に含まれる事から久米氏の館跡である可能性が言われる。
現地は台地の南端部で、南方直下は柳瀬川が削った地形になり、南側への眺望は優れている。北秋津交差点付近の山がそれになるのだが・・・駐車場がないので萎える。
相変わらずヘタレな我が身である。

●上安松屋敷(仮称)
さて、ここからが本番のまがい編である。JR武蔵野線と西武池袋線が交差する北に「松戸橋」という橋があり、この北側の地名が「前屋敷」という。そんな事でこの地を訪れる。
ここも新秋津駅に近い事もあり狭い路地に車が絶え間なく往行しているのでゆったり現地調査できなかったが、松戸橋の西側は比較的古い集落が集まっており、屋敷があったような雰囲気すらも感じさせられる。
再調査の時は電車で行くのが好ましそうである。

●牛沼屋敷(仮称)
こちらは駅から多少離れており、ゆったりとしている。場所は牛沼地内で、神明神社がある側に「屋敷脇」という地名が残っていたので訪問。ここも宅地が殆どだが、上記の館跡に比べたらゆったりとした空気が流れていた。
神明神社を参拝後、境内を調査したが、それらしき地形は見られなかった。ので周辺を歩いてみた所、神社の南西側に100m平方に区画した道路があり、その内側の集落の敷地には古樹が茂っていた。
その地を地図で見ると東川(昔は村名をとって吾妻川であったのか?)が周辺を囲むように流れており、古道が現地の中心まで伸びていた。また鬼門である北東方面に神明神社を配している事を踏まえるとこの地が江戸期以前の屋敷であった可能性は高いと思われる。


さて、ここで魔が差して所沢図書館へ。更なる情報収集に向う。
しかし、図書館に入ったのが運の尽きで、5時まで図書館にて資料を調べてしまった。本当に城館の資料集めは時間がいくらあっても足りない。

これで所沢市の城館まがいも7割訪問する事ができた。あとは市街地より東の城館推定地を訪問しするだけであるが、資料を調べる内にもう1箇所土塁などがあったという情報を入手する事ができたので、その地を訪れねばならなくなった。
所沢市・・・想像以上に奥が深い街である。
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DATE: CATEGORY:城館探訪

自分の人生の為に一時城館探訪を遠ざけたのではありますが、根性のない手前はいつも城館の事を思う毎日に・・・。

ガマンは身体に良くないので、今回は禁欲生活解除(笑
して何処に向うかと思えば所沢でございます。
しかも滝の城などの有名城館ではなく、「遺構まがい」を中心に回る事に。

●堀之内館(仮称)
所沢市の西端に「堀之内」というなんとも意味ありげな名前の場所があるので、早速訪問。
ここは隣の打越村に山口某の塁跡があり、ここはその外廓の堀の内ゆえに名が付いたとされている。
狭山丘陵より伸びる尾根が比高差20~30mの台地を作り出している場所があり、見晴らしは良好。
ただ、ここが中世城館である事はなく、すると麓の御魂神社付近にその遺構があったのではと求めるのが適切か?
なお、「殿ヶ谷」と言われる場所は行くの忘れた。

●三ヶ島館(仮称)
寶玉院付近に「内手」という地名があるだけで訪問。
しかし、付近には勝楽寺城(皆様には所沢根古屋城と言った方が通りがいいか?)の馬場であった場所もあるとの事でその周辺を調査。
寶玉院北側は砂川によって比高差3m程の段差を作り出していて、寶玉院周辺が西側に向って舌状台地をつくりだしているようにも見える。
ただ、宅地化されているので、遺構は皆無。勝楽寺城の真北に位置するので、山口氏家臣の屋敷か?それも出城か?再調査をする必要があるかも知れない。

●北野西館(仮称)
三ヶ島地区に隣接する北野地区(現在は北野南三丁目)に「後内手」「前打手」というまたも意味ありげな地名があったので探訪。
狭山丘陵から延びた尾根上に位置し、推定地域は茶畑になっているあたりと推定。南北は尾根続きで比較的緩やかだが、東西は谷になっていてそれなりの地形を有していた。
村山党山口氏の領土である事を踏まえれば、遺構があったとすればその家臣などのものか?

●北野館(仮称)
6年前の地図によれば北野地区なのであるが、現在では住所が変わり「北野南一丁目」となっている。
全徳寺の南の集落に「西内手」という地名があり、行ってみるとまた舌状台地上にある事が判明。
いや、どちらかと言えば南西の尾根続きを除けば独立した台地になっている。
全徳寺南にある中央付近の住宅のみ少しばかり高くなっており、ほぼ100m四方の形となっている。
ただそれだけで、土塁や堀といった城館遺構は発見できなかった。

●北野中丸(仮称)
ここも元北野地区であるが、現在では小手指南四丁目となっている。
北側に流れる小川が少し崖を作り出しており、「中丸」と称される地区はまたも西側から伸びる舌状台地上に位置していた。
川沿いに「梅田公園」という住宅公園があり、その真南辺りが古くからの木々がしげっており、城館がありそうな雰囲気をだしていた。
開発が著しい場所なので、更なる都市開発が行われ、遺構がありそうなヒントが失われる可能性が極めて高い。
小手指ヶ原の合戦の陣地説も考えたが、標高的に北側とほぼ同じで、視界を望めるように思えない事からその可能性は低いと思われる。

●上山口館(仮称)
元ユネスコ村の北集落に「中内手」という地名があるだけで訪問。
付近は駐車場が無いので、山口貯水池の有料駐車場に車を停め、水没したか定かでない近衛殿屋敷の遠望写真を激写。
さて、その中内手という地名の一部に「龍神社」があり、行ってみるとここもまた尾根上に作られた神社であった。
その境内を良く見ると・・・尾根上に謎の窪み。堀切にも見えなくないが・・・謎は深まる。
ちなみにそのまま尾根を登ってみたが堀切らしき地形はなかった。
勝楽寺城の周辺を守る砦の類であったのだろうか?


今回の所沢中世城館まがいツアーは、まだまだ半分しか行っていない。
東半分を探訪するのは・・・でも近々調査したいものよのう。
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DATE: CATEGORY:日記、その他
一時的に将来に向けて城館探訪を止めようかと思っていたが・・・どうしても城館が頭に浮かぶ。
やはり禁欲生活って無理なのであろうか?

それはさておき、現在埼玉県入間郡の城館跡に異常な憧れを感じていたりする。
この辺りの城館跡は都内に近い事と、圏央道の開発に伴う急開発によって
破壊の危機に瀕している所も少なくない。

確かに中世城館は今となっては過去の産物。
かと言ってその産物を名残も無く徹底的に破壊するのもどうかと思えるのだが・・・
いま少し保存への道を歩めないかと思うが、多くの人への理解がないと難しいのかも知れない。

そうなるとより多くの人に中世城館を知ってもらい、
「史跡は破壊されたら二度と戻らない」事を知ってもらうとまた違うのかも知れない。

これからの人々に中世城館遺構をどの位残してあげられるのか?
また、その人々に対して現在出来る事は何なのか?
結構考えてしまうのであった。
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DATE: CATEGORY:日記、その他
一年の最初の楽しみ・・・それは初日の出を拝み、そして撮影する事である。

今年は元旦から勤務なので遠くのポイントまでいけないのが残念であったが、なかなか素晴らしいご来光を拝む事ができた。
今朝のご来光がこちら。
2008年の初日の出

今回は地平線からっという訳には行かなかったが、雲よりいずる日の出が実に生き生きしていた。
2008年の初日の出 その2

今年は自分に、仕事に、そして城館に充実した1年になる事を、駆け昇る太陽に願うのであった。
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