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DATE: CATEGORY:日記、その他
って言っても好みの事を申し上げてる訳ではございません。
タイピングの事でございます。

以前買って放置していた特打を久々やったら・・・面白ーい!
チャットと城館データ入力で鍛えた我がタイピングで「マシンガンタイプ」にチャレンジしてみた。すると・・・どうやら手前の腕前はワープロ検定2級らしい。
自己最高記録は10分間に554文字だそうだ。これで2級じゃ1級の人の入力速度なんてどんな速さじゃ??

腕がつりそうになるが、しばらくボウリングもほとぼりを冷ます事にしたので、しばし城館以外の楽しみの一つになりそうじゃのう。
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DATE: CATEGORY:その他の事
今度妄想ってカテゴリーを付けようかと思うぐらい最近妄想が激しいのう(汗

先日探訪した行田市須賀城を軽くスケッチしてみた。すると・・・

何の根拠も無しにこんな絵を描くので、フィクションだと思ってくだされ(笑
こんな感じになりました(汗
この画像アップデート機能は縮小画像が劣化するので下手な絵を描いた時には非常に重宝するかも知れぬのう(笑
して妄想の解説を・・・

城館跡を南東方向上空より見下ろした絵で、全体的に高台になっているあたりが現在の須賀小学校。それでその脇を流れるのは当時の利根川(もっと流れが複雑だったと思うが、分からないので適当に書いた)
一番西側が若干高かったように思えたので、オマケに櫓台をつけてみた。
今の小学校全体が二の曲輪になっていて、絵の右下(東部)は利根川で警備に当たる舟及び物資の搬入をした舟などが出入していたのではないかと思い、津(港)を書いてみた。
二の曲輪南部は少し空き地になっていたので、元々は湿地で、外堀の役割を果たしていたのかもしれない。
更に南側には今も小河川が流れており、自然の堤防を成しているようにも思えた。

こう考えてしまうと須賀城って忍城の北方の守りの要になってしまうんでないかと思えるぐらい地の利に適っているように思えてしまう。
物資の運搬が主に舟に頼っていた時代なので、東側の窪地を利根川から引いた入り江に例えてみると、結構物流なども盛んであったのではと思えてくる。それに上州側からの有事には軍船を配備してそれに当たるなどもしていたかも知れない。須賀城の規模を考えても軍港だけに使っていたとは考えにくいので、普段はそんな使い方をしたのかなっとも。


・・・というのが現地を見てきた手前の妄想でありました。
これが真実か否か?今後その真実が解明していくとよいのう。

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DATE: CATEGORY:日記、その他
っと言ってもほんの一部ではあるが、栃木県の城館を回った事がある。
群馬県に比べて遠そうというイメージがあったのだが、手前のご先祖様が城主だったという城館も回った事もある。
ふと資料を整頓していたら栃木県の資料が出てきたので、懐かしさの余りいきなり栃木の城館について語るものとす。

栃木県下都賀郡藤岡町、家から一番近いイメージが強く、栃木県内の市町村別城館数で見るとダントツ訪問数が多い。
まず、藤岡駅近くにある藤岡城、いまでこそ明確な遺構が消えているが舌状地だけは喪失しておらず、城館がありし頃の雰囲気をよく出していた。
それから藤岡町の城館に興味が出て歴史民俗資料館へ足を運んだ。丁度対応してくれたのが「日本城郭大系」を一部担当された方で、手持ちの大系の随筆欄より「これ私ですよ」と指して教えてくれたが・・・後で見直してみたら誰だったか分からなくなっていた(汗
その時いただいた「藤岡町全図」をたまに見てその時の思い出に浸る事もある。その地図に蛍光ペンでマーキングされている「三階城」「小南城」「飛騨城」「角の内城」「太田城」・・・それらを回った思い出が頭をよぎる。その地図を手がかりに城館を廻り、手前はより城館探訪の魅力の虜になってしまったのである。
最近埼玉県北部に城館探訪をする事が多いから直ぐにいける距離であるのに、いまでは何故か遠く感じてしまう。他にも勧農城や足利城・富田城に唐沢山城・・・また訪問してみたいものだ。
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DATE: CATEGORY:城館探訪
今日は今まで探訪し忘れていたり後に城館がある事を知った場所を中心に回る事にした。

●熊谷寺(熊谷市)
resize4318.jpg
埼玉県内でもっとも出入が許されないで有名な熊谷寺を先に訪れる。早朝だけあって人気がまばらかと思いきや表のデパートの搬入業者の出入が何気に多かった。
周囲を回ってみたら、館跡があったと肯ける微高地がそこにはあった。

●鞘戸耕地館(行田市)
resize4326.jpg
若小玉小太郎の館跡があったと伝わる地。龍泉寺境内が館跡らしく、境内には板石塔婆がある。
山門前を住職様自ら草むしりをされていてお話を少し聞いてみると訪問者には寛容で、こちらとしても大変助かりました。個人的には城館探訪に寛容なお寺さんが増えると嬉しい。
お忙しい時間ながらも色々とお話を伺う事ができ、個人的に興味をもったのは行田市が面積に対して非常にお寺の数が多いという話であった。それを調べてみると、また面白い発見ができそうな気がしたりも。
じっくり話して1時間。お忙しい中をありがとうございました。

●蓑澤館(羽生市)
葛西用水路越しに館跡推定地を望む
「クニの部屋」の管理人様より得た情報により、蓑澤館を訪問する。
現在館跡は羽生北小学校敷地になっているが、小学校の北側の集落に僅かながらの微高地があるような気がした。

●須賀城(行田市)
resize4393.jpg
前々から行きたいと思いながらも結局今まで行かなかった城館跡。
一部のサイトでは「遺構がなし」なんて書かれているからどんな物かと思い行ってみると・・・須賀小学校全体が城館構築による高台になっており、西側が独立していて曲輪のようにも見える。背後には利根川の堤防があるが、川側の方にも若干の高地がみられ、堤防が須賀城の一部を使って作られているのだというのを実感できた。
そこで気になったのは長光寺東側の低地である。この辺りは周囲の水田地に比べて低い、しかも低地が東側に向って開けている事から推測するのに、須賀城はただ川の監視警備のみならず利根川沿いの舟運基地でこの低地も元は利根川の入り江で、船着場だったのではないかという事である。国境沿いで、中世の舟運が盛んだった事を踏まえると可能性はある。
・・・それにしても須賀城の石碑が結局見つからなかった(汗

●(仮称)犬塚屋敷(旧南河原村)
犬塚北の微高地、曲がり角の向こうには水堀もある。
犬塚地区の東に小字「東」「南」「北」とあったので気になり訪問。
この辺りは周囲を水田に囲まれ、僅かながら微高地をなしている。よくよく見ると中央付近の集落を囲むように暗渠化された排水路があり、北側の集落外れには水堀らしき場所まであった。
中世頃の資料が乏しく判断がしがたいが江戸期の屋敷跡である可能性が高そうだ。

●光照院(旧南河原村)
光照院北側にある水路
ここも特殊な地形をしていたため気になり訪問。先の犬塚屋敷より西に300m程の所でかなり近距離である。
光照院の周囲を囲むように水路が流れ、更に北側の集落も微高地である。後に調べてみたら室町期頃の板碑がここより発掘されたというので、もしかすると館跡があるかも知れないが・・・判断が難しいところではある。

●河原氏館(旧南河原村)
観福寺境内にある板碑の群れ
国指定の板碑のある館跡。河原ブラザーズの居館跡とされている。
東側に堀跡と思えるものがある程度であとは水害避けの微高地がある程度で、どれが中世頃からのものかの判断が難しい。例の国指定板碑は厳重に保管されていてすぐには見れない様子だったので次に行く事にした。

●日向館(旧妻沼町)
長井神社境内に謎の堀が幾つも・・・
日向地区にある「長井神社」が中世の遺構であるという情報を聞き訪れた。
強い日差しの中も木陰でとても涼しかったが、代わりに蚊の襲撃に遭い刺されてしまった。
堀跡が境内にあり、どうも構造的に北東を中心にするような堀の形状をしているのがきになる。すでにそちらの方角は畑であり、長井神社の境内のみがその遺構を残す形となっている様子であった。



さて!本日のメインディッシュ「赤岩渡船」の登場です。
中世頃から舟運で栄えた場所で、今では衰えつつも利根川を渡る橋の変わりに舟が動き続けているのである。前々から乗りたかったので、結構楽しみであった。
舟は群馬県側が管理している関係で群馬県側に待機している。埼玉県側から渡る時には葛和田バス停近くの小屋に黄色い旗があり、これを揚げると舟が来るという。うーん、昔からの感じがしていいのう。
5分ほどしてようやく舟がやってきた。舟には既に家族連れが乗っていて半ば湖化している利根川の渡河を楽しまれているようであった。そんな訳で手前も乗船する。
おお!水上は実に涼しい!!普段であれば橋を車で通り過ぎるのだが、舟で渡河するというのもまた味わいがあってよいのう~。
そんな事ですぐに群馬県側に到着。ここから徒歩で群馬県の城館の一部を探訪する事に・・・

●舞木城(千代田町)
舞木城跡にある児童公園、解説板もここにある。
既に遺構は小学校~住宅団地を経由して遺構がほぼ皆無であった。
しかしながら解説板だけは児童公園にしっかり備え付けてあり、由来を知る事ができた。
それにしても「藤原秀郷公誕生の地」って碑があるのだが・・・裏側が読みにくく、その由来まで読み取る事ができなかった。

●赤岩城(千代田町)
南側には堀跡らしき窪地がある。
そのまま赤岩城のあったとされる光恩寺を訪ねる。
ここは中世の城館があった事より、日本で最初の女医である荻野吟子生家長屋門の方が有名らしい。しかしながら城館跡の遺構は部分的ではあるがしっかり残っており、城館跡の領域をなんとなく掴む事ができる。北側の古墳も明らかに物見用に利用されたであろうなと思いつつこの地を去る。


ああ、舟に乗れた感動から眠くなり、埼玉県側に戻るとそのまま夕方まで窓を開けて昼寝する。思ったより風が気持ちよく夕方まで熟睡してしまったという。
でも非常に楽しい一日を過ごさせていただいた、ありがたし。

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DATE: CATEGORY:日記、その他
最近城館サイト更新するほどの時間がなくなってしまった。
仕事がどんどんできるのはいいが、城館を訪問できないとだんだんモチベーションが下がってしまうような気がしてならない・・・。

手前には「城館」が不足している。
明日はいっそ城館探訪してみるか。
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