fc2ブログ

カレンダー

12 | 2007/01 | 02
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -

ブログ検索


天気予報


-天気予報コム- -FC2-

最近のコメント


カテゴリー


月別アーカイブ


DATE: CATEGORY:城館探訪
三角原陣屋跡遠望

よく用いられる名称は「川崎平右衛門陣屋」と言う。
三角原陣屋という名称は「高翁家録」に記されている名称であり、現地の旧地名を残したい意味も込めて、ここでは三角原陣屋と呼称する。

時代は近世江戸時代。八代将軍吉宗が享保七年(1722)に新田開発奨励をしたとき、鶴ヶ島市もその対象となった。今までは武家出身の代官が新田開発に乗り出したが、いずれも失敗した。
そこで府中押立の農民出身である川崎平右衛門定孝が代官に就任。武州三角原に陣屋を構え、新田開発に乗り出した。名代官である平右衛門の善政により、新田開発は成功し農民たちはその感激のあまり川崎大明神廟を建て、その功績を感謝したという。


という事から近世陣屋なのだが、手前が気に入ったのであえて訪問する物である。



国道407号線にある「三角原交差点」

現地へはこの三角原交差点の西と覚えれば簡単である。


現在の遺構は後世に作られたもの

かくして農地の一角に土塁に囲まれた謎の空き地を見つける事ができる。この一部が三角原陣屋だった場所であるらしい。


三角原陣屋の解説板

道路脇には解説板が設置されている。詳しくはこちらを参考にすると良さそうだ。


三角原陣屋の縄張り図

ご丁寧に図面も用意してあり、これを見ながら陣屋跡を思い偲ぶ事ができる。
だが、狭い道路なので車にご注意であるのう。


川崎大明神廟

これぞ川崎大明神を祭った廟。この場所には解説板と土塁、そしてこの廟がポツリと置いてあるだけなので見つけるのが容易である。



現在残る土塁は後世の物であるが、陣屋がここにあったという真実を後の世に知らしめる感じがし、ありがたい事なり。
スポンサーサイト



| BLOG TOP |
DATE: CATEGORY:城館探訪
脚折館の遠望


鶴ヶ島市を流れる飯盛川の織り成す自然堤防上に作られたとされる館跡。鶴ヶ島町史では「大堀遺跡」と命名しているが、手前は便宜上の都合により「脚折館」と呼称する事にする。


脚折館付近を流れる飯盛川

飯盛川が館跡推定地の北側を流れる。この川の自然堤防は三角原陣屋や高倉砦といった城館跡を生み出している。


旧河川跡か?

河川の岸には謎の窪みが幾つもある。恐らくはこの川が自然に流れていたときの名残であろう。そう考えるとこの川は人の手によって深く掘り下げられた川であると言える。


堀と混同しそうだが・・・。

集落の側の方も川が流れていたらしい名残が残されている。こんな名残を見ているだけでかなり惹かれるものがある。


このあたりが館跡があったとされる場所だが・・・

ほとんどが住宅地になっているのだが、地形的な高さや旧街道の名残が残り、この脚折館の中心地であったという趣を感じさせてくれる。もっとも鶴ヶ島町の旧役場もこの近くにあった事を考えれば、昔からの中心地であったのだろう。
そんな中にも匂う場所を発見。


土塁らしき物体を発見!!

で!で!でたー!!
これは手前をクラクラさせてくれる土塁らしき土盛。大きさはそんなに無いが、これを見ただけで満足してしまいそうだ。


今の小口であろうか・・・。

車が余裕で入れるほど広がった小口。
というより元々小口であったのか疑問が残る場所ではある。まだ民家の反対側は未調査であるのでどれほどの規模を持つ館跡であるかは謎なり。


現在の飯盛川と旧河川跡

余り期待しないで行っただけに思わぬ発見をしたり。
だが、あれを素直に中世の館跡と決め付けるのは早計であるかも知れない。もう少し踏査した上で見極めるのが良いだろう。

何気にこの改修前の河川跡にちっと萌えた。
| BLOG TOP |
DATE: CATEGORY:城館探訪
山田遺跡の現在の状況

鶴ヶ島市の脚折(すねおり)町にあった複合遺跡。
正確に言えば館跡でない可能性は大分高く、中世の頃は鍛冶場であったようである。

何気に「遺構は喪失した」とされる場所に行き、その空気を堪能するのが手前の楽しみ方。もちろん周辺も歩いて遺構らしきものを探すのも楽しい。

すると・・・

これは土塁???

民家の庭先に謎の土の高まりが!
旧街道より垂直に伸びているこの塁を館跡の名残と断言できない・・・。
だが、そんなものもこういう街中に見つけると喜ぶ手前は・・・。
| BLOG TOP |
DATE: CATEGORY:城館探訪
破壊される前の広谷北城

この度の圏央道建設の為に一部破壊されることになった城館跡の一つ。

この周辺には謎の館跡が幾つか集まっていて、手前的に城館版さきたま古墳であると思い込んでいる。地形的に平坦で雑木林が豊富であるこの地は河越城と鉢形城や深谷城と言った北部の主要城郭との中継地点であるとされる。
手前が考えるに堅牢な城郭を築く事が難しいこの地において、数箇所の館跡を置くことにより、「別城一郭」の構えを取っていたのかも知れない。近距離とは言えお互いの城館同士は雑木林によって隠れているので、侵入者を脅かすゲリラ戦によって撃退をしようと考えていたのかも知れない。
とは言え築城者亡き今となってはあくまで推測でしか言えないのであるが・・・。

圏央道建築予定地に堀が走る

写真の通り圏央道で壊される部分はこの館跡のおおよそ半分ぐらいであろうか。南半分は永遠に失われるが、北半分は未だに雑木林として残されている。この雑木林、先の妄想では防衛のための施設に思えているのだが、今となっては不法投棄の現場になっているのが悲しき所。


遺構に残る沼?

残される雑木林の中にある沼。ここは水堀か生活用水を蓄えていた貯水地であったのかも知れない。


なお、ここまでの写真は2005年4月現在の写真である。
では今の遺構は・・・


◆Read More◆ »

| BLOG TOP |

copyright © 赤服の日記帳 all rights reserved.Powered by FC2ブログ

カスタマイズ