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DATE: CATEGORY:城館探訪
今日は久々の城郭探訪に行って参りました。
行った先は以前行きたがっていた「金沢城」と「王城」、それに今回で2回目になる「浦山城」の3箇所。本来なら「鐘掛城」も行きたかったが、時間の都合により断念する事にした。

浦山城を西(金沢城付近)から眺めた所。



浦山城
「日本城郭大系5巻」によれば平将門が城峰山(石間城)に籠城した時の砦と伝えられたとしている。だが、ここ以外の城峰山関係の城々を見てみると、ここだけ東西にくっきりと堀切がある。この事から踏まえると、以前は城峰山の監視用の砦(伝えの城)であったのを、戦国期に入り再利用したという事が考えられる。
では再利用したのは誰であろうか?まず思い浮かぶのは天神山城(のちに鉢形城に本拠を移す)を居城とした北条氏邦であろうか。天神山城を居城とした頃は上野国(現群馬県)はまだ北条氏の支配下になく、鬼石などの西上毛からの勢力が天神山城を脅かすとすれば、この浦山城の眼下の街道は丁度通り道になると思われる。この事から考えれば「浦山城→高松城→天神山城」という伝達ルートを確立させるにあたり、この浦山城は大事なポイントとして堀切を付け加えられたのであろう。また永禄十二(1569)年には、西上毛を支配下に置いた甲斐武田氏が秩父地方に侵略をしている。
それ以外には近くの金沢城に籠城した長尾景春が、追っ手を監視する為に堀切を加えたとも考えられそうだが、その場合、金沢城により深い堀や竪堀を加えると思うので確立は低いし、実際に籠城した熊倉城(日野城)などをみるとたかが監視の砦に堀切を付けるとは考えにくい。
そうなると残る可能性は北条氏邦の支配下になる前の高松城衆の増築とも考えられるが、高松城より北に警戒を高めていたのは北条氏邦支配下になってからの方が重要視されると考える。
以上から上野国からの脅威に氏邦が備えたと考えるのが一番自然だと思える。

・・・で本番の城探訪はカタクリの里だかがあって、公衆トイレも付いてるリッチな城跡。だが城跡までの案内は無く知っている人でないと行かない場所にある。もっともそのお陰もあり浦山城はその遺構を良好な状態で我々に見せてくれるのであると思う。

金沢城(石川県の方じゃありませんよ!!)をちょっと城峰山方面から眺めた所。左に消えてますが巨大な岩が土塁の役割を果たしてそうな。

金沢城
「日本城郭大系5巻」には土塁の一部と空堀が残存していると書かれているが、実際のところ堀らしい堀は見当たらなかった。今回行った場所は埼玉県教育委員会が発行した「埼玉の中世城館跡(1988)」を参照に行ったのだが、不思議な平場があるばかりで城郭と呼べるような遺構は見当たらなかった。長尾景春が謀反を起した翌年移り住んだにしては、あまりにも遺構が粗雑な感じを拭えない。西南西に伸びる尾根は平場と呼ぶのもためらうような傾斜がある平場があり。城峰山方面に伸びる尾根には堀切と呼べるような遺構もまったくなく、緩やかな尾根上を歩けば本曲輪と思える場所に到着する。これは城峰山からの出城の役割を果たす縄張りにしか思えない。現に先の浦山城と城峰山を狼煙の伝達網で繋ぐと考えれば、どうしてもこの金沢城が立ちはだかる。
ゆえにここは「防御機能」はまったく考えず、「城峰山への情報伝達網の1拠点」としての利用方法を優先した作りであると思える。浦山城は近くに集落があることから水の手がありそうだが、この金山城に関しては水の手も見当たらず、籠城して敵を引きつけるには不向きな城であると思えるのである。

んな事で浦山城から一端麓に下りて、林道(上武秩父線)を通って風早峠へ。この峠には皆野町と神泉村の境界線があり、それが目印になっている。そこから方角的に北の金沢城推定地へ。尾根の幾度かのアップダウンを繰り返してようやく標高715mの山に着く。ここだけ不自然な平場が尾根を挟んで東と西にあり、東側の平場は小屋1軒建つ程の広さがある。もちろん東の平場を外にみれば浦山城がまん前に見え、西に向けば王城と思える尾根を見渡す事ができる。また西南西の尾根上の平場(やはり傾斜があるので平場と呼べるかどうか?)からは神泉の集落が手に取るように望む事ができる。
だが、この遺構を見ていても、どうしても長尾景春が居城としていたとは考えられない。人の心理を考えても追われていればそれだけ守りも堅くするであろうし、太田道灌に追い詰められた熊倉城の遺構を見ると謀反後の景春が居城とするには心細いし、水の手も少ないから生活するのも難しい。景春は高松城か、また近くの城に住んで居たのを間違って伝わったと考えられそうである。
それにしても紅葉が綺麗だ。

逆光でよくわからんですが城峰山尾根上にある「王城」、ちょこっと高くなってるあたりが曲輪がありそうだった場所(標高830m)でありまうす。

王城
朝廷に謀反を起こした平将門が、藤原秀郷に追われて城峰山に篭ったと伝わっているが、関東には将門伝説がたくさんあるので、どれが本当にあったのかという点では少し信じがたい。「日本城郭大系5巻」には将門の弟御厩三郎将頼の居館とされている事からも、本来であればこの将頼が将門と間違って伝わったという可能性も充分高い。
さて、その将門伝説の伝わる城峰山の1支城として登場するのがこの「王城」なのである。先の金沢城と城峰山を結ぶ中継地点としての色合いが濃い。先に書いた「浦山城」と「金沢城」を加えれば「児玉・本庄方面の異変→浦山城→金沢城→王城→城峰山(石間城)」というネットワークがここに完成するのである。いくら堅固な城峰山でも突然襲撃されては落城の可能性は充分あり得る。そこで蜘蛛が巣を張り獲物が来るのを待ち構えるが如く、城峰山も伝達網を張り巡らしていたのである。これは後の戦国時代の後北条氏も支城ネットワークを張り巡らし、外敵に備えている。

それでこの城も堀は無く、不自然な平場っぽそうな場所があるのみである。・・・が杉の植林か林道の造形により、地形が大きく変貌してしまっている。かすかに平場に見える場所も林道(未舗装)によって削られ、挙句には不法投棄までされているという惨状。ここも金沢城と同じく伝達専用に作られただけの城であると思える。

落日、西上毛の山々に包まれそうな夕日を城峰山山腹よりチョイス。

・・・ってここまで見て外が薄暗くなったので帰宅。
町史を見たりして調べると更に分かるのであろうが、手持ちの資料からはここまでしか推定できなかった。だが、町史や伝承などを更に調べていく事により、更に秘められた謎に迫る事ができるかも知れない。そう考えると「マニアックな城って本当にいいですね」なんて思える。
ああ、我ながら変態度満点っぽそうじゃ・・・。
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