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DATE: CATEGORY:城館マガイ地巡り
夏だというのに突風のような南風が夏の暑さを和らげてくれていた日曜日。以前興味があって尽きない吾那蜆城の探索をする事にした。手前の持っている地図は埼玉県全域になっているため、大字までは記載されていても小字までは記載されていることは少ない。それゆえに市町村別に詳細な地図を見るべく越生町の図書館を訪れた。

 お目当ての地図は確かにあった。手持ちの地図には記載されていない「城山」なる小字を堂山地区にて発見するなどそれなりの収穫があった。だが、大築城の西側の馬場と呼ばれる地名までは確認できなかった。だが小字の確認ができただけでも収穫だったので、そのまま山の稜線へ移動する事にした。

 流石に日曜日の晴天だけに車が多い、だが主要道の混雑に比べれば全然空いていた。黒山三滝前の売店を越えて道がかなり狭くなってきた。午後なので山から下ってくる車が多い、慎重に運転して峠に向かう。曲がりくねった道を乗り越えた先に一本杉峠に出る、と言っても肝心の一本杉がどれだかわからんので、そのまま登山の縦走みたいに走ってる奥武蔵グリーンラインという山道を北へ向かっていく。

 しばらく走って居ると顔振峠(「かあぶりとうげ」と地元では読んでいたらしいが、かあぶりなんて読み方の方は初めて知った、絶対「こうぶり」とうげだと思うんだがな・・・)に着く。が、いつもここは見てるのでパス。駐車場がないからお店の駐車場借りないといけないのがあの場所のネックか。(すみません、いつも路駐で見晴台まで行っておりました(汗

 さらに車は北へ向かう。途中で10数台のジープがぞろぞろ走ってる集団に出くわしたりしたが、そのまま無事傘杉峠を通過する。そして傘杉峠の北側にある山の尾根のところで鋭くカーブする内円にちょっとした広い駐車場を見つける。関東平野に向かって伸びる尾根を利用して作られた見晴らし場で、名前が現地にはその名を示す看板もなかったが、個人的にかなり気に入った場所である。いつかイスを持ってきてじっくりあの風景を満喫したいものでありますな~

 途中で飯能市側の山腹にある「高山不動尊」へ向かうべくちょっと山を下る。急な斜面に高山の集落がある。坂の傾斜も30度ぐらいの急坂を下って「高山不動尊駐車場」を発見して車を停めて向かう。道なりに行くと前方に巨大なイチョウの木を発見する。てか看板を見るまでイチョウとはわからないほどでかくて異形な大木だ。鍾乳洞にある石筍のような形をしている部分もあり、かなり印象深い木だった。長い石階段を上りきると本堂があるが、「非常警報機作動中」とか書かれていたりしてなんともものものしい雰囲気に包まれていた。その向かって右後ろの斜面には中世館跡といわれる「高山氏館跡」があり、一部に建物が建ってはいるが、その郭と思わせる広場は今も残されていた。また戻って目的地に向かう。

 関八州見晴台という看板を見つけて登ってみた。が思い切り森の中で全然視界が悪い。後で調べてみたら関八州見晴台自体は高山不動尊奥の院すぐ側にあったらしい。って事は間違って登ってしまったのであった。

 そして目的地である謎の平場に到着する。それにしても不思議な平場だ、人力によって削平されたにしては妙に斜面になっているが、そうでもなく見える。ちょっと歩いてみたが、堀らしい遺構も無かった。今は杉の木が生えているだけの広まりだが、丁度山と山の尾根上にあり、古代の峠があれば関所としても使えそうだし、いろんな想像を掻き立てられる場所だったりする。小田原の後北条氏がもし正丸峠を通信網として秩父と川越間を利用したとしたら、ここになりそうな気がしなくもない。近くには太田道真(道灌のぱぱ)の隠居先である自得軒(三枝庵)にもかなり近く、自得軒の山頂が狼煙台だとすればすぐに狼煙を確認できる位置にこの平場はある。しかしこれも正丸側(飯能市)の狼煙台を見つけない限り北条流光通信の一点であるとは言えない。そうなると一昨日考えていた吾那蜆城の可能性はかなり高いのだが、問題は二つある。一つは水の手が周囲になさそうで、いくら短期間の在城だとしても生活するのに不便である事。もう一つは河越城に迅速な行動を起すにしても標高が高い事。現地は標高が770mもあり比高差もおまかに600mはありそうだ。いずれにしても道路の傍らに堀らしいものもあることだし、また現地調査をしてみる必要がありそうだ。

 かくしてまたも車を北に向けて今度は刈場坂峠に着く、峠なのに広々とした場所があり、駐車場がそのまま展望台になっているのが良好。視界をさえぎる木が無いので夜景スポットにもなってる様子。

 しばらく行くと大野の集落へ向かう道があるので、曲がって下っていく。その途中に舟の沢という集落があり、そこには中世城郭である「橋倉城」があったという。ここは「秩父誌」という書物に書かれていた城らしいが、後日その秩父誌を調べてみないとそれ以上のことはわからない。現地に着いてみたが、多少の民家と畑しかなかった。「埼玉県の中世城館跡」の記述を見ると跡地は民家や畑と書かれていた。その畑もかなり平場になっていたので、とても単に畑を作るだけだったらここまで平に削る必要もないので、まずここと見て間違いないだろう。

 色んな文献を見ても越生という町は丁度「河越~秩父」の最短コースとして多くの峠が作られた場所である。となると街道を押さえる城や砦も当然作られてよいはずで、まだまだ山中を歩くと大築城の様な遺構を保った城もでるかも知れない。いづれにしても平野部の城に比べたら未開のフロンティアとも言える。現地調査でわかる事も限られているだろうが、色々歩いてみるしかないと思う。

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