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埼玉県入間郡越生町に謎の城郭「吾那蜆城(あがなしじみじょう)」があるという情報を得たのは今から2ヶ月前。越生町の図書館にあった「越生の歴史Ⅰ(原始・古代・中世)」に書かれていた「吾那蜆城合戦」の項目を読んでからであった。

 関東進出を企む小田原・後北条氏の二代目北条氏綱は、扇谷上杉氏の支配する河越城の奪取に策を色々練っていた。享禄二年(1529)年12月に家臣の遠山丹波守直景を吾那蜆城に入城させた。吾那地区とは現在の越生町と飯能市の境になっている山地をさしており、越生から秩父地方に行く街道筋の地方であった(昔は大雨や台風などで増水して橋が流されたりして天気に影響される川沿いの街道より、さして影響されない峠道を好まれたとされる、たとえ山があろうとも最短距離で確実なライフラインを確保できる方を選んだのであろう)

 作戦の指揮官である遠山丹波守直景は江戸城衆の軍事指揮権をもっており、この作戦には江戸城とその周囲の軍勢を率いての大掛かりな作戦だったと想定されている。また作戦を確実なものにすべく、先の大永四年(1524)の北条氏の江戸城攻めにおいて参陣した毛呂氏を初めとした周辺の北条方の武士を引き連れ、河越城を江戸城の方角からも攻めて挟み撃ち(河越城包囲作戦?)にしようとしたのではないだろうか?だが、蜆城に入城した時、多くの江戸城衆を引き連れていたとしたら小田原本国より援軍も時期をあわせて攻める可能性も考えられるが、それが出来ない状態だったので少数軍勢での奇襲作戦だった可能性の方が高そうである。これは当時の小田原の軍事情勢を照らし合わせれば判明しそうだが、それは後の課題としておくのも良いだろう。

 かくして年も暮れ正月になったとき、蜆城に入った北条方に予想もしない事態が発生した。奇襲をするはずの河越城方にこの作戦が露呈され、逆に正月の三日を攻められてしまったのである。予想外の奇襲に遠山丹波守率いる江戸城衆は敗走、勝ちの勢いに乗った上杉方は江戸城衆の持ち城であった小沢城(神奈川県川崎市多摩区栗谷にある浅間山周辺)と世田谷城(東京都世田谷区豪徳寺二丁目、世田谷区役所近くに城址公園あり)を攻め落とされ、江戸城も根小屋(武士が寝起きしてた小屋という事からこう呼ぶ)を焼き払われてようやく河越城へ戻った。上杉方の総大将である扇谷上杉朝興自らが出陣したとの事で、度重なる北条氏の侵略にいかに屈辱を感じていたかがわかる気がする。

 かくして河越城奇襲作戦は北条方が手痛い反撃を受けた事により終わりを告げた。名門扇谷上杉朝興と、新興勢力である後北条氏の二代目、北条氏綱。彼らの武蔵争奪戦の一幕となっているのがこの吾那蜆城合戦である。

 この蜆城の名称は「石川忠総留書」に残されているそうだが、問題はその場所である。越生の歴史Ⅰでは麦原の大築城を有力視している。確かに大築城も吾那地区に属し、その遺構も今なお健在している。だが、ここで疑問に思えてくる点が二つある。

1・いくら正月で北条方が油断していたとしても、あの比高差のある城がわずか1日で落城するのだろうか?

2・河越城を奇襲するには大築城の位置はあまりにも高く、攻めるのに時間がかかるのではないか?

 また元々の蜆城(大築城)が狭くてモロドノ郭を増築したとしてもそれだけの兵を山頂で待機する事ができるのだろうかと、疑問を持ち始めると次々と出てくる。

 ここで手前が考えた条件として、①峠を越えた場所(つまり越生町)で兵を休められるある程度広い場所、②素早く街道に出れる場所、③水の手を容易に確保できる場所・・・という点が挙げられる。

 そこで次に蜆城の候補として考えたのは太田道灌の父である道真が、若年から暮らしていたという龍穏寺近くにある山枝庵である。以前の調査で山林に埋没してはいたが、兵が野営できるだけの広がりは見れた。現地に井戸は無かったとしても近くに沢があり、容易に水の手は確保できる場所ではあった。こちらの方が大築城より標高も低いので素早く街道沿いに出る事もできる。

 しかし、これも疑問が残る点がある、道真が没した明応元年(1492)から蜆城合戦の行われる享禄二年(1529)までの約37年間、この三枝庵はいかに使われていたかである。一番考えられるのは近くの龍穏寺のなんらかの施設があったという点であろう。次は道真以降の血族の内、誰かが遺領を引き継いだという点。最後に道真亡き後要害化させるまでもなくなったので、街道沿いの一物見台となった可能性である。

 実はこの三枝庵、山の北側の山腹に作られており、日照時間はいたって短い。日陰になる場所に道真が好んで隠居先と選ぶ可能性があるのかという点も出てくる。道真が若い頃に仕方なく当地に暮らしたというのはまずあり得るが、その後周囲勢力を駆逐したかして平穏になれば、日当たりのいい龍穏寺あたりに居を移す可能性は充分高い。この事を考えてみれば三枝庵は「道真の若き頃住み→移転し必要がないので廃墟化→蜆城合戦時に北条方が陣屋として改修」という事も考えられる。それにどんなに密かに軍勢が吾那の峠を越えて来ても、廃墟となった三枝庵に軍勢が集結していれば、近くの農民が気付かないという事はあり得ない。扇谷上杉朝興も軍勢を周囲に配置してなかったとしても密偵は配置していた可能性は充分あり得る。もしくは恩賞目当てに近隣の農民が上杉方に密告した可能性すらもある。

・・・こう考察してきたが、北条方の江戸城衆がどの位の軍勢を引き連れ来たのか?またそれだけの軍勢が短期間寝起きするには当時どの位の広さが必要なのか?これを明かさない限り、吾那蜆城の所在地を掴むのは難しいだろう。また蜆城とは三枝庵などとは別に一時的な陣屋として作られたが現在まで遺構が残っていない可能性すらもある。また文献からなら「小田原衆所領役帳」などの所領石高を参照して当時の起せる兵指数を想定する事も可能であろう。いずれにしても文献も少なく手がかりとなるヒントも少ない蜆城の位置。動員できる兵士の数から逆算という新たなる発見方法もありそうだが、「主力が蜆城において、残りの兵士は近くの陣屋にて野営させる」方法を取ったとしたら、蜆城=大築城である可能性もまた高くなってくる。(先陣を麓の隊に任せ、本隊はその後追って合流)

 長くなったが、当時の軍勢状況を知る人間が居らず、伝承も乏しいとあれば憶測からどんな状況で蜆城合戦が行われたかを考察するしかない。正確な答えを出すのは難しいだろうが、これもまた歴史を勉強する上の魅力的要因になっているはずである。

・・・って思い切り日記でないな(笑

<参考・引用文献もしくはサイト>

●日本城郭大系5巻・6巻 (新人物従来社)

●日本人物総覧 歴史篇 (新人物従来社)

●越生の歴史Ⅰ(原始・古代・中世) (越生町教育委員会)

●毛呂山町史 (毛呂山町教育委員会)

●各城現地案内・解説板

●飛騨観光 「陽山亭」 旅の道標→史跡・名所一覧

●県別マップル 埼玉県版
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